大阪・生と死を考える会 分科会:大阪・ひまわりの会
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会報より、一部読み物を抜粋し掲載しております。
会報62号
2020年02月02日
大阪・生と死を考える会・会報
〖生と死を考える・大阪〗      2020(令和2)年2月1日 第62号

新年にあたり 〜当会の活動が布施〜
会長 田端一男
明けましておめでとうございます。
 希望に満ちた新年を迎え・・・・と申し上げたいところですが、米国・イランの関係、米国・中国の覇権争いのほか、我が国周辺では、最悪の日韓関係、北朝鮮の核保有と脅威、中国・ロシアが影響力拡大を画策、加えて、中国発の新型肺炎の感染拡大が懸念される、大変残念な状況です。国会では、このような国の安全や将来に関わる問題について、現実に即し危機感をもって、最優先で、真剣に議論していただきたいものです。
 我が家では、13年前に妻、10年前に父、3年前に母が亡くなりましたが、遺品の整理は、妻の分は半分位で止まったまま、父母の分は手付かずのままになっています。遺品整理が進まないのは、思い出・思い入れがあり割り切れない、今後必要かもしれない、まだ使える等が主な理由です。
 しかし、よく考えると、私が死んだとき息子達の立場で考えれば、金銭的価値のあるもの以外は、思い出となる写真の一部ぐらいしか要らないと思うのです。既に亡くなった3人分の遺品整理を出来るのは私しかいません。この際、私が割り切って、大胆に処分しよう、加えて、私に関してもできる限り身辺整理を済ませ、すっきりと分かりやすくしておこうと思い、今年の目標を、4人分の整理と決めました。昨年の反省に立って、忘れず、計画的に実行するつもりでいます。
 最初は、亡妻の遺品整理です。正月から、彼女の机の上、引き出し、そして書庫の片付けを始めました。13年間、手を付けられずにいたこともあり、一つ手に取る度につい思い出して手を止めることの繰り返しで、なかなか思うように進みません。それもまた亡妻の供養と前向きに考え、時間がかかってもやり抜くつもりでおります。
 亡妻の机を整理する中で、小冊子「禅 仏教の信心(臨済宗連合各派布教師会、平成21年)」を見つけました。妻が亡くなって日が浅い頃、菩提寺から頂いたもので、一通り目を通したものの、特に気になるところはありませんでした。しかし今回、改めてパラパラとページをめくってみると、次のようなQ&Aが目に留まりました。
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Q 「布施」とは
A お布施といえば「お坊さんへのお礼」と思われているようですが、それだけではありません。仏道の修行者と信者が実践しなければならない大切な6つの徳目、その第1が布施です。
 布施を言い換えれば「助け合い」です。人間に限らずこの世のすべての生きものは、お互いに恵みを受け、かかわり合い、助け合って生きています。そうでなければどんな生きものもこの世に存在し得ません。ですから私たちは、他からの恵みやかかわり合いの恩恵に感謝し、その恩恵を他にめぐらしていかなければなりません。私たちは「助け合い」の布施行、歓んで実践したいものです。 
布施は金銭だけではありません。「笑顔」や「やさしいまなざし」そして「愛語」は大切な布施行です。暖かい言葉は何よりの「助け合い」になります。礼儀正しく、思いやりの心をもって席を譲れば周囲の人に喜ばれるでしょう。お金が無くてもできる布施がたくさんあります。いつでも、どこでも、いくらでも出来るのが布施です。布施をこちらから先にすれば周囲を豊かにできるでしょう。家庭や社会は明るくなるに違いありません。
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 私は、妻の急な病死で大変辛い時期に、当会に助けられ、支えられて悲嘆を乗り越え、ようやく立ち直ることができました。そのことへの感謝と恩返しの思いで当会の活動に参加してきました。
 偉大な谷会長が亡くなられた後、会長を引き受けたものの、医師でもなく、人脈も地脈もない私に何ができるのか。谷先生を慕って入会された会員が次々と退会していかれる中、当会をどのように継続していけば良いのか思い悩み続けてきました。当会への感謝と恩返しの思いは変わらないものの、それだけではなかなか継続し難いという現実を痛感してきました。
 しかし、このQ&A「布施」とは を読んで、気が楽になりました。負担する金額の多寡でなく、個々人の能力に応じて助け合いの行いをすることが「布施」であり、分科会ひまわりの会の「わかちあい」をはじめ、当会の活動は、まさに、このQ&Aにいう「助け合い」の布施行そのものであると思います。更に仏教以外でも、おそらくそのような教えがあるのではないかと思います。
 当会の活動を必要とする人がある限り、可能な限りそれに応えることが布施行であるとの認識をもって、今後とも前向きに努力していきたいと考えます。
 
本年もご理解ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。


定例会より(話題提供の要約)

令和元年9月14日(土):小松病院 松柏苑会議室  
テーマ  生きる意味を求めてやっとここまで来れました
話題提供  棗田 瑞代 氏  (当会会員・青空の会東京会員) 姫路市 在住

平成11年9月30日膵臓がんで亡くなられたご主人「たっちゃん」(享年36歳)。体調の不調で通院を始めて10ヶ月というなんとも早い「死」までの夫婦の日々の闘病の様子を聞かせていただきました。
20年も前のお話とのことでしたが、その当時のお二人の精一杯の「死」と闘う姿に何度も涙が止まらず、ほんとうに心打つお二人の生き方にお会いしてはいないのですが、この日「たっちゃん」の存在をしっかりと感じさせていただいていました。限られたわずかな紙面でお伝えすることは不可能なこの日のお話なので、お願いをして、当時続けておられた交換日記の一部を中心に紹介させていただきます。
 
まず、神原さんより、棗田さんの紹介をいただきました。

「棗田さんは、念願だった二人の夢が叶い、店舗付き住宅を購入し、理容師のご主人とお客様に喜ばれる理容経営の夢と元気に育つ子供たちの成長を願い、若いお二人の夢は無限のように思えました。
そのような中、ご主人が体調の異変を訴えられて医療機関を受診、検査の結果、『すい臓がん』と診断されました。その後の有様について棗田さんにお話をしていただきます。二十余の歳月が経過していても遺族に悲しみが癒えるものではありません。特に棗田さんの場合、ご主人の『若年がん』の告知を受けて後の様子や本日のテーマ“生きる意味を求めてやっとここまで来れました”と思えるようになられた気持ちをお話していただきます。

語りの中に登場する中野貞彦氏は、在京のがん遺族の会『あおぞらの会』共同代表で、日本ホスピス・在宅ケア研究会の理事の籍にあり、故・谷荘吉先生とも旧知の方です。大阪、神戸、姫路のひまわりの会と、関西在住の青空の会員様が一同に介して、大阪で遺族会が開かれました。その後、日本ホスピス・在宅ケア研究会全国大会で何回かお会いする中、当事加古川市に在住の棗田さんを紹介して下さり、以後二十年余のお付き合いになります。今回あつかましく体験発表をお願い申し上げたところ、快くお受けしてくださり、本日話題提供の運びとなりました。

青空の会共同代表の中野貞彦氏は、谷荘吉先生ご逝去後、「大阪・生と死を考え
る会」に何かとお力添えを頂いております                

それではどうぞよろしくお願いいたします」。

「こんにちは。姫路市から来ました棗田瑞代です。この度、この機会を与えて下さった会員の皆様と神原さんに深く感謝を申し上げます。神原さんとは、東京のがん患者遺族の「青空の会」会長中野さんを介して知り合いになりました。もう約20年近く、私の心の中で繋がっていただいている大切なお母さんのような関係であると理解していただければよいかなぁ〜と思います。
そんな絆があるにも拘わらず、なぜ、今まで当会に足を運ぶことができなかったのか、私の現在に至るまでどのような変化があり、たどりついたかなども含めてお話させていただきます。(後略)」という言葉から始まりました。

平成10年11月下旬
元気がとりえだった「たっちゃん」(主人)が、寝苦しい・息苦しい・肩が重いと不調を訴える。

平成10年12月下旬
食欲がなくなり、体重が1ヶ月で5s以上落ちていき入院。

平成11年1月8日転院
「閉塞性黄疸」と言われ、お腹からチューブが2本の痛々しい姿で入院生活が始まる。交換日記を始める。当時は携帯電話も普及していないので、お互いの言葉で伝えきれない思いを伝える唯一のつながり。この日記は3冊に及び、今となっては宝物。

平成11年1月27日
「限りなくがんに近い」と言われる。

今はなんかピンとけえへん。ガンというのは俺には関係ないと思ってた。俺が何したんやと思うこともあるけど病気やから誰が悪いわけでもない。なってしもうたんはしゃ−ない。なりたくてなったわけやないからがんばるで。今までもこれからも辛い検査があってそれに耐えてきてるんやから。これで終わるわけにはいかん。俺が一番気になるのはみー(話題提供者)のこと。みーはすぐ耐えれんようになるからどうすればええか。今は何とか状況を現実的にとらえ冷静になってほしい。

無理かもわからんけど、怖くて仕方ない。これはみーにしか言えんよ。他の人には強がりで通せるけど、病院で一人になるとワァーワァー泣きたくなるくらい。俺も人間やし、みーは「我がままで、自分勝手で、すぐ泣くし、子どもみたいで強そうで弱い私のどこがええのん?」ってよく聞くけどそこがええんや。何でかって言うたら、そんなみーは俺にしか面倒見れんやろ?大樹と佑亮も俺とみーにしか育てられんで。だからみーと大樹と佑亮をおいてどっか行くわけいかんやろ?俺、目標もってがんばるわ。(このあとは、これからの夢が書かれている)

私は残される方、たっちゃんは残す方、どっちが辛いだろうという話題がよく出ていました。
私は、「残される方が辛いに決まってる。たっちゃんは死んでしまったらそれで終わりやん。でもみーはたっちゃんが死んだ後も生きていかなあかん。大樹と佑亮を育てなあかん。生きていれば辛いこといっぱいある。そしてたっちゃんが死んだ悲しみ、寂しさをずっと、ずーっと、ずーーっと、みーが死ぬ日がくるまで背負って生きていかなあかん。たっちゃんなしの生活、今でも耐えれんのに死んでしまうなんてとんでもない。」という気持ちでした。
私がそう言うと、たっちゃんは無口になり、たっちゃんの気持ちを分かろうとしなかった私がいました。たっちゃん本人は、想像がつかないくらい辛くて不安で仕方なかったはずなのに、私は自分の気持ちばかりぶつけていました。

平成11年2月16日手術
手術は12時間。手術前、「膵臓ガンです。もしかしたら当日お腹を開けてみて手遅れの状態だとわかると、2〜3時間の手術で終わります。」と聞かされていました。
AM10:00手術開始から1時間、2時間、3時間と時間が経ち、「お願い、早くに呼ばれないで」と祈りながら待ちました。その時の気持ちは言葉になんてできない。もし例えるなら、有罪で実刑か死刑かの宣告を待っているような気持ちでした。もう、心配で、心配で、気が狂いそうでした。
12時間後、先生に呼ばれた時は、もうヘトヘトになっていました。ICUに呼ばれて入った時には、涙が出ました。「よくがんばったね」その言葉しか出ませんでした。たっちゃんの第一声は、「辛かった、もういいや」。とりあえず手遅れじゃなかったし、麻酔から覚めてくれたという気持ちでホッとしました。しかし、手術後の辛さは半端なものものではありませんでした。
 術後は大樹と佑亮にはかわいそうでしたが、広島に預け、たっちゃんに付き添い看護。声が出ないからしゃべるのも苦しそう。傷も痛くて眠れない。身体を動かすのも、じっとしとくのもしんどい。喉が渇いても水さえ飲めない。地獄だ生き地獄だと言って、毎日毎日何度も何度も泣いていました。そばで見ていて辛かったです。

しんどくても何もしてあげれないもどかしさ、なんて声をかけてあげればいいか分からないはがゆさで、私自身も滅入っていました。
 私は、何をするにも、どこに行くのも、たっちゃんの後ろをついて回っていました。たっちゃん自身の治したい、家に帰りたい、そして生きたい、死にたくないって気持ちが自分自身を奮い立たせていたんだと思います。

大樹と佑亮そしてみー。俺はがんばる。三人がおるからしんどい治療も苦痛も耐えれる。もう、元の身体に戻れることはないとしても、今のままの状態かもしれんけど、がんばって何十年も生きてやる。あの時主治医の先生から言われたことが嘘の様やったと思わせるくらい、しぶとく生きる。こんな事ぐらいで生きる気力をなくしとったらなんもならん。今まで生きてきた34年間はなんやと思ってしまうから。周りから“奇跡や”と言わせてみせる。

術後一ヶ月半
退院。何をするわけでも、話をするわけでもないけど、たっちゃんがそばに居る。子供が「パパ、パパー」と呼んでいる。その日常の何げない光景が最高に幸せでした。

平成11年5月18日
二人の結婚記念日。想い出作りの決行日。二人が付き合い始めた頃に行った想い出の場所、鈴鹿への3泊4日の旅。楽しい想い出を少しでも多く残しておきたかったし、たっちゃんの気晴らしになると思ったからです。
車の中で、たくさん、たくさん話をしました。「もし」とか「何年後に」とか、希望と諦めが混じった会話です。あと、想い出話もしました。「もし・・・」とが会話の始めに出てくる時は、たっちゃんが亡くなることを前提に話をし、「何年後に・・・」という時は希望が続く。たっちゃんはどちらかというと「もし・・・」とよく使っていたと思います。それは、たっちゃんの不安な気持ちから素直に出てくる言葉でした。「何年後に」という時は、この先一年後からおじいさんになるまでのながーい未来の話で、夢があるから生きたいと思う、目標があるからがんばれる、でした。
目先の目標は、8月の自分の誕生日を迎えたい。それから年を越したい。そして大樹の小学校の入学式を見たい。そして、また一年。佑亮の入学式もみたい。もう言い出したらきりがないくらいでした。それくらい一日一日を生きていくのが大変なんだと言うこと。たっちゃんは、いっぱい語ってくれました。



たっちゃんの最後は、大樹と佑亮の孫を見てからというもの。それは昔からよく言っていました。そのおじいさんになるまでの間も、いっぱい、いっぱいあるけど、書き切れないくらい、やりたい事をたくさん話してくれました。私はずっと頷いて、そうなるといいね。そうなりたい。そうならなあかん。絶対そうすると思いながら
聞いていました。この旅行でたっちゃんの本心を知ることができ、意味のある旅行になりました。その反面たっちゃんの気持ちが痛いくらいわかり、私は辛くなったことも事実です。
旅行に出る1週間程前に、再発・転移が見つかり、先生から「あと半年。もって一年」と言われました。私の気持ちはどん底でした。家に帰りたくなかった。ずっと旅行して、楽しい事ばかりしていたかったです。なんでうちの家族だけこんな目にあわなきゃいけないの?なんで?この寂しさ、辛さ、悲しさ、誰にぶつけたらいいの?夢であってほしい。神様が本当にいるのなら助けて!ずっと今のままでいたい。たっちゃんが私のそばに居る。このまま時が止まればいいのにと、旅行中ずーっと思っていました。

告知について
旅行から帰ってくると、再発・転移による治療のため再入院。肝臓に転移が見つかっていたので、鎖骨からポートを埋め込み、そこに抗ガン剤を直接流すようにする処置のためでした。
その転移は、手術をして二ヶ月を過ぎた頃に見つかったものでした。「二ヶ月しか経ってないのにもう?」と私は何とも言えない、実刑から死刑を言い渡された気持ちでした。なぜなら「抗ガン剤の治療をしても少し寿命が延びるだけで完治はしない。治療してもっても半年」と言われました。一番大切な人の死の宣告でした。手術して良くなるんじゃなかったの?元の身体には戻れなくても、ガンと共存して、もう少し何年かはあると思っていたのに目の前が真っ暗になりました。
その頃、お互い信頼しきっていましたので、秘密というものなんてどこにもありませんでした。私が嘘を言えるわけがありません。たっちゃんの人生を私が奪えるはずがない。手伝う事はできるけど・・・。だから告知についても初めから私はそういう考えで、たっちゃんもそういう考えだったから告知について悩むことはありませんでした。
周囲の人に、「なんで言ったの?たっちゃん、かわいそう」と責められたけど、私はその人たちに責められる理由なんてないと思っていました。同情では闘っていかれないと思っていたのです。「同情するなら何か手伝ってから言ってよ」と、言いたいし、同情でたっちゃんの気持ちが安定するなら、同情してもいいと思っていました。そうじゃない。私にもたっちゃんにも同情なんて必要ありませんでした。必要なのは生きたいという気持ちだけで、マイナスな気持ちを持てば、病気に負けると思っていたからでした。
私は告知をする事で一緒に闘おうとする責任感はすごくもっていました。無責任に告知したんじゃない。たっちゃんを一人で苦しめない。だから、私のできる事は私なりに一生懸命がんばってたつもりでした。それを、告知した事で責められる必要はないし、たっちゃんもそう言ってくれました。
辛い日を、慰め合いながら、励まし合いながらがんばりました。ただの延命でもいい、少しでも長く生きたいと願うたっちゃんを、わたしは心の底から励まし支え続けました。この頃も、死の宣告をされても、二人とも“奇跡”を信じていました。たっちゃんの日記にこんなことが書いてありました。

もしこの世に神様か仏様がおって何もしてくれんかったら俺は地獄の底からでもはい出て、どつきに行く。これだけ俺の精神的、肉体的苦痛と自由、それに俺の内臓あげたんやから、もうあげるもんはないで。俺の肉体と魂は25年後ぐらいまではあげれん。もうこの辺にしといたってぇな。俺の家族の幸せを奪うのは、もうやめてくれ。やめてください。どうかお願いします。

子どもの気持ちについて
大樹の忘れられない一言があります。佑亮が、パパの病気が治ったらサッカーがしたいと言ったことがあります。今の体調から見て、パパはサッカーなんかできる状態ではありません。だから、何と言っていいのかわからず黙っていたら、大樹が「もうパパのお腹治らんでー」と言ったんです!私はビックリして、「大、何でそう思うん?」て聞いたら、「だって、いつもパパとママ、話してるやん!」と返ってきました。「治らんかったらどうなるん?」って。私は子供にすごい質問をしていました。大樹は、「知らん」と答えましたが、大樹の中の「もう治らん」は、どういう意味を持っているのか、私はそれ以上聞けませんでした。
佑亮は「二人が賢くしてないから治らんのん?」と聞いてくるし、「それは違うよ」って教えても、佑亮はそう思ってると思うと、二人になんて言えば良いのだろう。もしそのままの考えを持ち続けていて、たっちゃんが亡くなった時、もしかしたら佑亮は、「自分のせいでパパが死んじゃった」と思い込んでしまう。そうなれば大変な事になると思い、子供達に、いつ、どんな風に、何を話したらいいんだろうと、この頃ずっと悩んでいました。
再発がわかった5月ぐらいから、保育所の先生とも、子供の事について、そしてパパの状況も伝えながら、それに対し子供がどう感じてるか、変化があるか、ママと先生の交換日記をつけていました。


特に、子どもにパパのことを告知するという事では私自身すごい悩んでいて、子供達に、「パパは治らんのや」とか「賢くしてないから僕たちが悪い」と言われると、そろそろ話す時期じゃないかなぁと思い始めていて、でも、まだ6歳と5歳の子供に伝えるには悩みました。そのことを先生に相談したところ、こんなお手紙を頂いた。
「大事なことは伝え方だという事。子供は12歳ぐらいまで善悪とか良心とかはまだ大人に委ねてます。という事は、母が言う事は正解。だからパパがいなくなってしまうということを母から聞くといなくなってしまうまで、毎日が不安になってしまわないかと心配です。
ガンという病気についてどういうものか話すのは必要だと思いますが、希望を持つことの大切さと、世の中絶対ということなんてないのではないかと思える力が与えられるような伝え方ができればいいと思います」という内容でした。
この手紙を頂いたあと、たっちゃんといっぱい考え、病気の原因はガンということ、そして、ガンという病気はどんなものなのか、分かりやすく伝えました。二人が分かったか、分かってないかは定かではないけど、「ふーん」といった感じでした。子供のことについてはほんとにすごく悩みました。
たっちゃんも、よく考えていました。きっと私以上に考えていたと思います。
「今までみーや大樹や佑亮に何をしてやれたやろ?何にもしてやれてないんやろか?でもできるだけそばに居て愛情を注いだつもりやけど、それを受けとめてくれたやろか?これから何をしてやればええんやろ?このままやったら大樹と佑亮に何も残してやれん。金とか物もそうやけど、思い出も残せん。情けない。情けない」と言っていました。子供の事を思うと胸がつまって苦しくてしかたがなかったと思います。

仕事そして金銭問題
5月〜8月の間は比較的体調は安定していました。1月から半年間閉めていた理容院を6月にやっと開けれるようになりました。退院して自宅療養といっても、特別何もする事もなく、ただ、日が一日一日と過ぎていくだけだったので、ぼーっとして時間を過ごすのはもったいないと思って店を開ける決心をしました。不安はあったけど、金銭的にも困ってましたし、何より私が家族を支えなきゃという思いがあったからでした。
たっちゃんが入院してから、お金はすべて両親に頼りっぱなしでした。私達は、両親がそうやって援助をしてくれていたから、お金のこと、仕事の事、気にせず、たっちゃんを看病できていました。本当に両親には感謝してしきれません。
 
そして、もう一つの理由は、たっちゃんの生きがいを作るためでもありました。15〜16年間続けてきた理容師です。今まで生きてきた中で唯一誇れるものだと言っていました。その仕事をもう一度させてあげたかったんです。20s以上痩せてしまったたっちゃんの身体で、仕事はかなり厳しいと思っていましたが、たっちゃんが、やりたい、少しでも元気で働くパパを子供に見ておいてほしいと言うので、パパは体調がいい時だけする事にした。
初めは不安だった。無理をするんじゃないかとか、体調を崩さないかとか・・・。でもたっちゃんは、「ただ生かされてるのは嫌や!生かされてるんじゃなくて、自分で生きようと思いたいから」と言っていました。
 仕事しているたっちゃんの後ろ姿、めっちゃかっこよかったです。どれだけこの人は強いんだろう。ただ、「生きたい」、それだけの事に一生懸命でした。
 8月下旬までがんばって仕事ができていたのに、たっちゃんの誕生日(8月25日)過ぎた頃から、一度出た高熱がもう抗生物質の点滴だけでは治らなくなっていました。そして、当然長引く熱にたっちゃんの身体は消耗していきました。もう自宅で見る事はできないと思い、入院を勧めましたが返ってきた答えは「NO」でした。「佑亮の誕生日の日に家にいて4人でお祝いがしたい。だからそれまで我慢する」と言うのです。私はもう、優しいパパと思う以前に呆れてしまいました。「自分の体やで、今無理すればどうなるか分かってる?」と、いっぱい説得して入院をさせました。今は、唯一この事だけが後悔でなりません。あの時、なんで思うようにさせてあげなかったんだろうと、悔やんでいます。
 9月に入ってたっちゃんが入院すると、子供の世話、たっちゃんの看病、仕事、家事。もう身体がフル回転で、精神的に参っていたので、ボロボロでした。気を抜こうとするものなら、間違いなく一気に崩れ落ちていました。それぐらい毎日気を張り詰めていました。
 家では泣いている日が多くなりました。そんな娘を心配して、「転院したら?子供とたっちゃんを連れて広島に帰ってきたら?」と言われました。もう一人で何もかもするのは無理でした。私自身を支えてくれる人がほしかった。助けてほしかった。もう限界でした。

2冊目の交換日記
『9月8日byたつひろ』じゃなく愛するみーへって書いて欲しい。みーの愛を感じてる?みーの思いを感じてる?最近特に思う。どれだけみーがたっちゃんを想ってもたっちゃんはうわの空。みーが一言言えば俺が俺がと言う。みーに対して冷たくなっていくたっちゃんにみーは寂しさをこらえきれない。みーも分からんけど精一杯やってるでと言っても「いや分からん」と言うたっちゃん。ならみーにどうして


ほしいのって怒りさえ覚えるくらい悲しくなる。みーも自分勝手な事言っているのか分からん。でもそれ以上にたっちゃんがみーに当たっていること分かる?みーは愛してる。苦しいくらい、愛しいくらい愛してる。みーから離れないで、みーから消えないで、みーから遠くならないでってずっとずっと言ってるのに・・・。
入院したから遠いのじゃなく気持ちの問題を言っているのに・・・。みーが毎夜なぜ泣いているのか分かる?大樹と佑亮がなぜあんな風に言うのか分かる?ほんとたっちゃんの中で何か崩れ始めた感じがする。どれだけみーががんばろうとしても、
みーには分からん。親にたっちゃんが死んだ後の話なんかされた時には、もうみーはたっちゃんが生きててがんばってほしいのにって思うのに、みんなしてみーを追い詰めていく。みーは悲しい。たっちゃんが弱気になっている事態が悲しくてしょうがない。「仕方ないやん」というかもしれんけどがんばれよ。パパでしょ。みーの夫でしょ。苦しい時は一緒だよって言ってるじゃない。なのにみー一人にされたみたいに最近いつも感じて悲しくてしょうがない。みーは子供に何か聞かれるたびにドキドキしてなんて言っていいんだろうと戸惑うばかり。たっちゃん、みーの事世界一愛してるって言って、安心しろって言って、みーもう苦しいよう。

9月11日 愛するみーへ
みーにはほんまに感謝してるで。店して、子供のめんどう見て、看病してくれて、家の事して、身も心も疲れてると思うのに色んな事に耐えてがんばって、偉いと思うわ。みーの年齢でがんばれるのは、すごい事やと思う。俺は幸せ者やと思う。このままで死んだりなんかしたら、すごいバチ当たり者や。これぐらいではくたばれへんから任しとき。それと親バカかもわからんけど、大樹も佑亮もええ子に育ってると思うで。よう言う事聞くし、お手伝いもようするし、その辺の5歳児、6歳児よりええ子に育ってる。そんな大樹と佑亮とみーの為にも、しんどかってもがんばるから。しんどい時は愚痴も出るかも分からんけど、これはみーにしか言えん愚痴やから、また言うとるわ!ぐらいに聞いといて。愚痴愚痴言いながらでも絶対がんばるから。だから今まで通り、俺を支えてくれ。俺にはみーしかおれへんから。
たつひろ

9月21日
 昨日はたっちゃんが続けて書く事になったね。みーは昨日いっぱい書きたい事あったんよ。昨日思ったの、みーにしかできん事、親にしかできん事あるって。いつもたっちゃんに何かしてあげたいと思っても、何もしてあげれない。いつもいつも無力に思えてみーも自分自身情けない。でもみーは、いつもそばに居る。そばに居てちゃんとたっちゃんの悲しみ、苦しみは受けとめる。みー強くなったでしょ!夜、


泣いてても、朝たっちゃんの顔を見ると、いつもホッとするというか、みーが守ってあげなきゃって切り替えができる。たっちゃんに笑い事じゃないと怒られても、みーはそばに居て笑顔を見せてあげる事しかできないから、いつでも笑ってるよ。がんばってるたっちゃんへ

9月22日
 最近いつも思うけどみーと結婚してつくづく良かったと思う。いつも最大の愛情で看病してくれるし支えてくれる。励ましてくれる。他の者には絶対できんやろう
と思うし、また逆の立場では俺はみーにこれだけの事してあげれるやろうかとも思う。ほんまにみーで良かったと思うし、みーやないとアカンと思う。それと大樹と佑亮に悪い事してしまったな。もしかしたら運動会も出られへんかも分からんし、出れても、練習あんまりできんもんな。今の俺には子供達に何もしてやれへん。これってやっぱり父親として情けない。子供だけじゃなくて、みーにも、ウチの親にも、何もできん。頼ってばっかり、仕方ないけど・・・俺のできる事っていうたらは早く元気になる事しかないから、がんばって早く元気になるようにするわ。俺の大切なみーへ                           たつひろ

二人の交換日記は22日のたっちゃんの番で終わりました。23日個室に移り、私も病院に泊まり込むようになったから、交換日記は必要なくなりました。
最後の最後の宣告。「もう治療のしようがない」、この言葉で私は崩れ落ちました。もう、たっちゃんにはこれ以上酷な事は伝えられない。今まで隠し事をせず、すべて私が話してきたけど、この言葉は無理でした。けど、何度も「納得いかない」と言うたっちゃんに、悩んだあげく、伝えよう。あとの事は私が何とかする。最後まで私がそばにいて一緒に苦しんであげよう、そう決めました。でも、やっぱり私の口からは言えず、先生にお願いしました。聞きたくなかった話を聞いて、硬直したたっちゃんの顔、忘れられません。
そして、先生が出ていった後、少し沈黙が続き、私は堪えきれなくなって、初めておもいっきり崩れ、取り乱し、大泣きをしました。我慢していた思いが大爆発したのです。
「そんなの信じない、信じられない。嫌だ。一人にしないで、おいていかないで。これからたっちゃんがいなくなったら、どうやって生きていけばいい?死なないで、お願いだから、死なないで。死んだりなんかしたら絶対許さない。たっちゃんが死ぬんだったらみーも死ぬ。大樹も佑亮も殺してみーも死ぬ・・・。」
もう、思っている事、言いたい事、ぶつけまくってました。
たっちゃんは、涙を流して、「ごめんな」って、「ごめんな」って謝り続ける。謝る必要ないのに、なんで謝るの?こんな時に、なんでたっちゃんが謝るの?「怖い」と叫んでくれればいいのに。「死ぬのは嫌だ」と泣いてくれればいいのに、一緒に狂ってくれれば、どれだけ楽になれたか。結局、最後もやっぱり私を守ろうと、私を心配し、大樹と佑亮を思い、小さく泣いてくれました。一言も怖いとも言わず、ただ黙って自分の運命を受け入れようとしていたのです。
これからどうやってたっちゃんを支えよう、助けてあげよう、もう苦しめたくない、もう苦しまなくていいやん、いっそう早く楽にしてあげたいとも思いました。この人の人生は何だったのだろう。こんな死に方をして、それでも私と結婚して、大樹と佑亮ができて幸せだったと言ってくれ、最後まで三人を守ろうとしてくれている。私は運命を呪いました。神様なんて信じない事にしました。もう何も信じられなかったです。
その日以後、たっちゃんは急速に悪化していきました。頭がフラフラする。目の焦点が合わない。ろれつがまわらない。力が入らない。私に訴え、苦しんでいきました。一緒にいれる最後の時間を二人で一生懸命受け入れようと過ごす事によって、怖さから解放されたいという気持ちでいた時間。フラフラすると言うたっちゃんの頭を片手で支え、片手で車椅子を押して歩いていました。
焦点が合わないから、みーの顔が二重に見えると言うたっちゃんに、「いいやん、かわいいみーの顔がたくさん目に映って」と冗談言いながら慰め、たっちゃんの目になってあげたあの時、私の中で少しずつ覚悟する事ができていきました。
たっちゃんが亡くなる2日前、睡眠剤の点滴を9時から10時に変えてもらった日。点滴を始めて眠りにつく前に言ってくれた言葉があります。ほんとうに最後の会話となったこのお話は、私の宝物なので、秘密にさせておいて下さい。
そして、数分後眠りにつきました。その日を境に会話らしい会話をしなくなりました。そして、先生にも「もうそろそろ」と言われたのです。

9月30日
どんな言葉をかけても、もう何も言ってくれません。私の頭の中はパニックになっていました。先生にも看護婦さんにも、何度も状況を聞いたりもしました。血圧がどんどん下がっていってて、今は点滴で血圧を上げているけど、その点滴を外せばと怖い事も考えました。
「ここに居るよ。ずっとずっとここに居るよ」と言ってあげるけど、ビクともしない身体、目を開けたまま瞬きさえしません。黒目も動かない。目が乾燥していく。閉じてあげても、閉じる力さえない目は開いたまま。痩せてガリガリになっていたたっちゃんの身体は、むくみ、パンパンになり、もう私は、涙がとまりませんでした。たっちゃんの暖かい手を握り、愛しているとささやき続け、たっちゃんの息遣いを耳に焼き付けていました。下顎呼吸。いっぱいいっぱい呼吸して、生きようとしているたっちゃん。死にたくないと訴えるかのように、一生懸命がんばっていました。
そして、私は、私の顔を見てもらいたくて目に当てていたガーゼをはずすと、一度だけ涙を流しました。その涙の意味は何だったの?私が見えていた?声が聞こえていたの?問いかけても答えてくれません。以前、誰かから聞いたことが頭をよぎっていました。心臓が動いている間は、反応しなくても、声は聞こえている、と。だから、私を感じてほしくて、ずっとずっと手を握り、独り言のように話しかけていました。もう時間がない。一分一秒も、離れられない。離さない。たっちゃんから目を離すのが怖かったです。何より一緒に最後の息を引き取るまでずっと一緒にそばに居たかったんです。
夜になり呼吸がだんだん小さくなってくる。もうタイムリミット。先生も看護婦さんも家族も、そして心電図の器械もすべて揃いました。と同時に、呼吸が急にどんどん、どんどん小さくなっていきました。私は大樹と佑亮を抱きしめ、叫ぶように最後にかけた言葉は「大樹と佑亮をちゃんと育てるから安心してー!」でした。たっちゃんも最後の力をふりしぼったのか、大きい黒目を動かし、それから瞬きを数回した後、心臓が止まりました。PM8:25。
みんな、泣き崩れました。私は大樹と佑亮をぎゅっと抱きしめたまま、「もう、三人で生きていくしかない。お願いだから、大樹、佑亮、強く生きてね」と思っていました。大樹はそんな大人を見て不思議に思ったのか、「これでやっとパパ、楽になったね。よかった」と言うのです。大樹の目にもきっとパパの痛々しい姿がたまらなく辛かったんだという事が、その言葉一つで分かりました。「そうやで、もうパパ、楽になったんやで。これからは三人でがんばろう」と、大樹に言いました。
その後一時間かけて目を摘出し、変わり果てたたっちゃんを目の前に、ただ呆然とするばかりでした。二人で以前から入っていたアイバンクに、たっちゃんの両眼を提供。たっちゃんの希望だったので、そうする事にしました。

「35年間生きて、みーと結婚して大樹と佑亮が生まれて、三人に何も残してやれん。でも、俺が生まれて生きたという証しを残したい。少ない人生やったけど、世の中のために何かしときたい。そうすることで証しになる。苦労かけて、辛い思いをさせて、寂しい思いをさせる事になるだろうけど、何も残す事もできないから、せめてパパのいいところを見せてやりたい。」

私は、パパを誇りに思って生きてほしい、という思いで決心したのです。人の役に立つという事、身体を張って教えたパパからの贈り物だと。



その後、気になってアイバンクの方へ電話をしました。提供先の方の名前は教えてもらえなかったけど、両眼とも使われたとのこと。一眼ずつ目の不自由な方に。よかった。二人の人が幸せになっているんだ。たっちゃんの目が生きてるんだ。私も、現実をしっかり目を開けて生きようと思えました。

死んでしまいたいと、何年も思い続けて・・・
亡くなってから何が一番辛くて悲しかったというのは、寂しさはもちろんですが、たくさんの借金の返済と子供と生活していく為に朝から夜中まで、やりたくない嫌な仕事を泣きながら我慢してお金の為、お金の為といつも言い聞かせながら働きましたが、家を売却したり、お墓をたてるまでには、私の気持ちを無視をするかのように、容赦なく事が進みました。きっとそんな事が拍車をかけて、私の心をさらに孤独にさせ、追い込んでいったのだと思います。後で知った公的な手当もなく、若いがゆえの世間知らずでした。
私はいつもたっちゃんのそばに居たい。たっちゃんの所へ行きたい。死んでしまいたいと、何年も思い続けていました。自己嫌悪とたくさんの傷とむなしさが一層苦しみを倍増させてしまっていました。誰も私の気持ちなど分かってくれる人は居ないと、閉じこもっていたので、結果悪循環をくり返していました。
親でさえ何度となく「あんたの気持ちは分かるけど、代わってあげれんもんじゃけー」と慰められても、「簡単に分かるって言わないで、代わられへんとか当たり前のように言わないで、子供の前でしっかりしなさいとか言わないで」、と親だからこその厳しい言葉にも完全に拒絶していました。なので、どれだけ、地元に戻ってきて、近くで生活したらいいとか言われても、私一人は帰ることはありませんでした。生活が辛くてもたっちゃんと過ごした想い出の地を離れる事ももちろん嫌でしたし、地元に帰り同情ばかり向けられるその環境もすごく嫌だったのです。
そんな生活の中だったので、2人の子供にもずいぶん寂しい思いをさせました。幼少期は、実家に預け、離れて暮らしていました。その分夜中まで働けたのも事実ですが、生き甲斐も感じれず、何にがんばっているのかも分からない状態でした。

これからお話する仕事での日常が、私の気持ちを揺らしながらかたくなで、我がままだった私を変えていってくれることになりました。

私を変えていってくれた、忘れられないお客さま
 私は美容師の仕事をしていました。中でもウイッグを専門とする仕事についてました。生活も安定して、仕事も懸命にしていましたが、数年ぐらい前から、仕事をしていても無気力感を感じる事が多くなりました。それはとても無常なもので、ガン患者様の割合が多くなり、私がお客様個人の気持ちに入り込み過ぎるようになってしまい、たっちゃんが亡くなってから封印しようとしていた闘病中の辛さ悲しみがフレッシュバックになって、襲って来るようになりました。何よりも無力感が勝ってしまい、仕事をしていても辛さの方が多くなりました。お客様が来店の度に、体調と気持ちに配慮しながら沢山のお話を伺いますが、それとは裏腹に、この方やご家族の方はあの時の私が経験した辛さがあるのだろうなぁ、とか、私に他に何が出来るのだろうと考えるようになってしまいました。
 忘れられないお客さまが1人おられました。その方は40代独身の女性でした。
80歳の母親を介護しながら2人暮らしでした。病気になったことを心配かけまいと隠して闘病されていました。その方は何時も来店されると、母親がデイサービスで作ったからと、手作りのアクリルタワシを山のように持ってきてくださり、お店のお掃除で使ってくださいと寄付してくださっていました。
 また、自分が抗がん剤で髪が抜ける前に購入して一度だけ使用したけど、もういらないからとバリカンを頂いたこともあります。
 その方の最後の来店は、今でも目に焼き付いています。親戚の方に車いすを押されて来られました。もうお薬で呂律もほとんど回らないほどの状態の中で予約をしていたからといって来られたのです。無理をされなくても良かったですのよと言うと、もう多分来られないと思うからと言い、わざわざ会いに来てくださいました。ウイッグも全て持ってこられ、もういらないからと必要な方に無償であげて欲しいと言われるのです。もちろん高価なウイッグをそんな事も出来ず、お断りするしかなかったのですが、その方の温かさに触れる反面、私は、あの時の無常な無力感に打ちのめされていました。その方はそれ以後来店されることはありませんでした。
 私の携帯の中にはその方の番号が入ったまま今でもあります。もちろん繋がりませんが消せないのです。月子さんという綺麗なお名前で私は月にお帰りになられたのだと、名前を見ると思い出しています。
 あんなにも自分が闘病で辛い治療をしながらも、女性として結婚して子供を持ちたいと望むこともなく、死んでしまうかもしれないのに、残された母のこと、ましてや他人である私達にまでも最後まで気にかけてくださり、「本当になんで、こんな方が亡くならなくちゃいかないの!」と辛くなるばかりでした。私には何も出来ない。たっちゃんも亡くなってしまい、私は死にたくても死ねないのに、「生きる」って何だろうとばかり考えるようになりました。
そして、生かされている意味を探すかのように、お寺へ勉強に行くようになりました。初めは現実逃避のように通っていましたが、あるきっかけで臨床の勉強をするようになりました。
皆さんは、臨床仏教師や臨床宗教師という方が活動されているのはご存知でしょうか?
 

私は無気力感を抱き続けてきた、安定のあった美容の仕事を辞めました。子供が成人し、独立したのもきっかけです。生きるって何?生かされているだけの私って何?と、今度は自分の意思でとことん苦悩と向き合い追い込んでいこうとしています。
 現実を直視することが出来なかった私は、自分の殻に閉じこもっていましたが、人に心から感謝することが出来るようになりました。沢山の方に支えられて、今の私が現在までいるという事も解るようにやっとなれたのです。本当に本当に長い道のりでした。そして寄り添ってくださった沢山の方へ感謝を込めてこの発表の場に立たせて頂きました。私にはまだまだ学ばなければならない事、知らなければならない現実があると思います。少しづつしか私には進めませんが、たっちゃんとの別れから「私が生きる意味を求めてここまでやっと来た」のですから、これからもありまま、みーらしく生きていこうと思います。今日は長時間お話を聞いてくださり有難うございました。

たっちゃんが亡くなられた後の寂しさの中で一人どれほど苦しまれたか、そしてその寂しさと苦しみの中で、「生きるって何!?」「生かされてるだけの私って何!?」と自分の意志でとことん苦悩と向き合い、現在は新たな道として臨床仏教師を目指して歩まれております。


* 棗田さんのお話を聴かせていただいての感想

超絶なご主人の壮絶な死。これから何のために生きるのか。
残す妻や子に何がしてやれるのか、というご主人。何もしてやれない苦しさ。凡人の私には 何もまだ分かってない。
私は傾聴ボランティア21年間。ホスピスボランティア14年間。大阪9年、京都5年間毎週通い続けました。死は毎週訪れました。しかし死は他者の死です。どうにもならない他者の死です。寄り添って寄り添っての上での死です。
(谷荘吉先生の入院時のホスピス病棟にも寄り添われておりました。その姿を
見て感動いたしました。 事務局・井上)
4.私は2年前心臓手術3回。血管へステント(金網)4本入れています。
昨年大腸がんステージ3。リンパ転移でした。
5.退院して思った事は、生きてるだけで丸儲けやと気がついたのです。小さい事が嬉しいのです。妻と居ることの嬉しさです。傾聴5ヶ所を訪問できることの嬉しさです。唯生きてるだけがすばらしいと気がついたのです。
                          ( 安井 潔 )
                     
ひまわり便り  (大阪・ひまわりの会より)

令和元年(2019)10月12日(土)

「ひまわりの会」定例会でしたが、台風19号の接近につき、検討の結果、ホームページでもお知らせ(会長)の通り、中止といたしました。
今後も警報などが発令されましたら定例会はお休みいたします。
事務局に問い合わせをお願いいたします。

令和元年(2019)12月14日(土) 14:00〜小松病院 松柏苑会議室

元号が令和に変わりまして、最終月の「ひまわりの会」となりました。
今月は、奈良県御所市から、33歳の息子さんを急死で亡くされたご両親が新参加されました。「将来ある息子のこれからの人生を断ち切られたかと思うと、突然死が受け入れられない」「同じ思いをされた方々のお話を聞きたい」「また、私達の話を聞いていただきたい」と希望されました。その後、参加者と交わり、熱心に耳を傾けておられました。                      (神原 一二美)


運営委員会だより O

不定期ですが、会の運営の様子をお伝えするコーナーです。本会は、会員・非会員を問わず、その時々に参加する全ての方たちと一緒に創り上げていく、ということをまず大切に運営しております。一人でも多くの方々がこの会を通して出会い、お互いの思いをわかちあい、共に歩み、一緒にこれからの日々を心豊かに生きていくことができますように・この出会いが一人でも多くの方々と繋がり広がっていきますようにと願っております。

お詫び
紙面の都合で、「こころ(自由発表の場・会員だより)」「東日本大震災後の生と死を考える」のコーナーはお休みさせていただきます。
この会は、年会費2000円で運営しております。会報の印刷(紙代や印刷代)や郵送にかかる費用も考えながら、少しでもよい(内容やページ数)会報にしたいと毎回いろいろとやりくりしています。今回は、定例会のお話はなんとしてもできるだけお伝えしたいと考え、このような編集になりました。

事 務 局 便 り   井上 泰子
                            

令和2年子歳の新年を健やかに迎えられたこととお慶びを申し上げます・
本年が穏やかな日々でありますように祈念いたしております。

「子」は十二支の最初に位置し、新しい物事や運気のサイクルの始まる年と言われております。また今年はオリンピックイヤーで、先のアジアで最初に開催された東京大会から56年の歳月が経ちます。当時私は東京で学生生活を送っており、首都高速道路の本格的な開通、東海道新幹線(東京―新大阪)が10月1日開業、その後10月10日にオリンピックが開催されました。感動を忘れることが出来ない反面、ことわざの「歳月人を待たず」の戒めのことばに、時を逃がすことなく、一瞬を大事に日々を過ごさなければと思った次第です。

当会もこの5月で23周年を迎えます。この歳月を皆さまと共に歩んでまいれましたことに感謝を申し上げます。また前会長、故・谷荘吉先生が逝去されて6年になります。仏教では7回忌にあたります。先生は常に仕事上、他の方面でも活躍のトップに在籍されたにもかかわらず、「ありがとう」との感謝の気持ちを表現されておりました。会員さまにも感謝の気持ちを伝えておられました。

新聞の「人生案内」で掲載された文章です。「言葉はとても重いものです。例えばギリシャ神話の世界では、神さまですら一度言った言葉は取り消せなかったのです。今は多くの政治家がいとも簡単に発言を取り消すように、言葉をいい加減に使ったりする人もいていろんな人がいるのが世の中です。言葉を大事にしない気の毒な人なんだなという大きい気持ちを持ってやり過ごすこと」と記載されておりました。私もこのところ心無い言葉を投げかけられた体験がありましたが、そのような人は自己中心的で、プライドが高く、人とのコミュニケーションの想像力が低い孤独な人と聞きましたので、なるほどと気を取り直しました。感謝されるシルバーエイジ(肉体的年齢を意味するのではなく、心の輝き)を日々心がけたいと思っております。
本年もよろしくお願いいたします。
事務局       
〒大阪府寝屋川市初町13−4
          井上泰子方
  ?/Fax 072−823−2215       
 Eメール:osakasskangaerukai@yahoo.co.jp
http://www.os-seitoshi.org/

お知らせ

  「大阪・ひまわりの会」 
身近で大切な肉親・家族・友人を喪ったために、癒されがたい悲しみを抱えておられる方の「わかちあいの会」です。お互いに、つらい胸のうちを語り合うことによって、私たちはひとりぼっちでないことに気づくかもしれません。また、どんなに時間がかかってもかまいません、一緒に新しい生き方を探していきましょう。同じような体験をされた方の話が聴きたいと思われたり、誰かに何かを語りたいと考えられたとき、どうぞお越し下さい。 
(事前のお申し込みは不要です)
日 時:2020年3月14日(土)
    (午後2時〜午後4時ころの予定) 
会 場:介護老人保健施設「松柏苑」
    1階会議室(小松病院構内)
連絡先:事務局(井上 泰子方)
Tel/Fax:072-823-2215
携帯:090-5367-6139
参加費:会員・非会員 500円
※ホームページにも当会についての案内を掲載
いたしております。

編集部より
この会報は、皆さまからの投稿・寄稿とその折々の集まりの際に書いていただいた報告・感想を編集したものです。年に3回というゆったりとしたペースですが、その時々の皆さまの気持ちや思いが記録されています。テーマ・表現の長短や形は全く自由です。また、会へのご意見や要望も大歓迎です。これからもよろしくご協力をお願いいたします。

4月定例会のご案内
日 時:2020年4月11日(土)
会 場:介護老人保健施設「松柏苑」
    1階会議室(小松病院構内) 
??桜の開花により変更がある予定です。

♪ 編集後記 ♪
 令和になって初めてのお正月。
この新しい年が、みなさまにとっても幸せなよい1年となりますように!
会も、23年目に入ります。「細く、長く」との谷先生の思いをどのように・どれだけ受け継いでいけるか。編集する時にいつも浮かびます。
今年もみんなで力をあわせてその時々にできることを一つひとつていねいにしていきたいです。     (いかわ ようこ)


生と死を考える・大阪 第62号 
 発行者:田端 一男 編集者:井川 洋子
 校 正:井上 泰子
 印 刷:運営委員
 事務局:〒572−0833
大阪府寝屋川市初町13−4 井上泰子方
  電話・FAX:072−823−2215
  http://www.os-seitoshi.org/
E-mail :osakasskangaerukai@yahoo.co.jp
原稿宛先: sakasskangaerukai@yahoo.co.jp












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